| あえぎ声は誰のためか Seibun Satow Jul, 5. 2010 「人間の甲斐部は猿の解剖のための一つの鍵である」。 カール・マルクス『経済学批判要綱』  ハロルド・レイミス監督の映画『アナライズ・ユー(Analyze
  that)』(2002)の中でこういうシーンがある。ロバート・デ・ニーロ扮するポール・ヴィティが出所し、久しぶりに女性とベッドに入る。彼の追跡を続け、それを盗聴しているFBIの女性捜査官が男性の同僚にあのあえぎ声は演技だと嘲笑する。感じていないさ、その振りをしているだけだというわけだ。  この作品に限らず、こういったセリフは映画の中でしばしば女性の口から発せられる. その際、あえぎ声を求めているのは男の方で、それに媚びている女だとか演技に気づかない間抜けな男だという軽蔑のニュアンスが聞いてとれる。そこには、あえぎ声は女性が真に感じたときに出るものであるというリアリズムが見受けられる。  なお、『アナライズ・ユー』の吹き替えには、少々気になる誤訳がある。ポールがベッドを共にしたその女性を「立ちんぼ」と罵るが、これは適切ではない。街角に立つ売春婦を指す言葉ではなく、かつて職業安定所(現ハローワーク)を通さず、その近くに立って仕事を待つ日雇い労働者のことである。また、ビリー・クリスタル演じるベン・ソボルが口にした飲み物を「ギンナン茶」と言っているけれども、「イチョウ茶」の間違いである。これらの誤訳は英文和訳ではなく、日本語の知識に問題がある。  あえぎ声が誰のためであるのかを考える際に、示唆を与えてくれるのがバーバリー・マカク(Barbary macaque: Macaca sylvanus)の性行動をめぐる研究である。これはジブラルタルの岩山に棲む尾のないサルで、古くから生態観察されている。  交尾は、敵に狙われやすくなったり、メスの身体に負担がかかったりするなどその間は非常に危険である。そのため、交尾の時間は大半の生物では短い。ゴキブリに至っては、生涯たった一回の交尾ですませている。メスは精子を体内に貯め、好きなときに受精して産卵する。交尾したメスのゴキブリ一匹はコロニー一個に相当する。しぶといはずだ。  なお、動物の性行為を「交尾(Mating)」と呼ぶ理由は、人間以外には正上位の体位が難しいからである。  ところが、このバーバリー・マカクは頻繁に交尾し、しかも比較的時間も長めである。霊長類の場合、交尾は生殖以外に絆を深め合う行為でもある。  その交尾を観察していて、興味深い傾向が発見される。声を上げるメスと上げないメスがいるが、受精の確率において、両者の間に差が見出される。前者が後者よりかなり高い。10倍もの開きがあったという研究結果もある。あえぎ声はメス自身が感じているかどうかではなく、オスに射精を促す合図である。あえぎ声はメスと言うよりも、オスのために発せられるものである。演技であるかどうかは問題にはならない。  言うまでもなく、これはサルに関する一研究である。人間にそのまま適用できるものでもないだろう。しかし、人間の男性も女性のあえぎ声を求めるという点で、その機能は類似しているのではないかと推測できる。  もっとも、性に関して独りよがりの男性は驚くほど多いし、そのため、オルガスムに達していない女性が少なくないのは確かである。男性は女性のためにもっと汗をかくべきである、あえぎ声のリアリズムが志向されるのも、無理からぬ状況がある。映像で女性に性描写を受け入れさせたければ、そのシーンを無声にすればよい。あえぎ声の言説は男性に交感の意識が欠けていることが大いに影響している。  そもそも、動物において、交尾はメスがその気にならない限り不可能である。そのため、オスは涙ぐましいまでの努力や工夫をしている。概してオスの外見がメスよりも派手なのも、彼女たちの好みのうるささにも起因している。動物のオスは紳士である。彼らにとって最大の侮辱は人間の男に譬えられることだろう。  性では交感に基づくのを忘れないこと。 〈了〉 参考文献 Dana Pfefferle,
  Katrin Brauch, Michael Heistermann, J. Keith Hodges, and Julia Fischer. “Female
   http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2596815/ DVD『アナライズ・ユー』、ワーナー・ホーム・ビデオ、2003年 |